本木昌造伝


本木昌造が生み出した活字は、日本中央の新聞・出版界を席巻し、わが国の印刷文化の基礎を固めていきました。
-学問を広め、情報の流通を促し、文化を伝える-
昌造の先見性・使命感の情熱には、私たち現代の印刷人にも熱く語りかけてくるものがあります。
私たちが手がける印刷業は、現在マルチメディア化が求められ、その対応が急がれているところです。しかしそうした中にあって、私たちはもう一度活字を通して「人から人へ伝えるということ」のあり方を考えていきたいと思います。映像だけでなく活字-文字-というものの創造性を再度認識する必要があるのではないでしょうか。


其の壱 ~生い立ち~    


 1824年(文政7年)、当地長崎において印刷に深く関わりを持った一人の先人が生を受けました。長崎市新大工町乙名 北島三弥太(みやた)の四男として生まれた彼こそが、後の本木昌造その人です。
 1834年(天保5年)、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、その後23歳に小通詞並(しょうつうじなみ ※通詞とは現代でいう通訳にあたり、当時は江戸幕府の役人として貿易事務なども任されていました)になりました。彼は通詞としてまた、航海、造船、製鉄などといった各方面にも活躍の場を広げていきました。

 



其の弐 ~若き日の昌造と蘭書~

   1848年(嘉永元年) 昌造が25歳の時、蘭書植字判および印刷機を通詞仲間と共同購入し、蘭書復刻を計画しました。
 通詞という職業柄、幼い頃から洋書に接する機会が多く、日本の木版印刷と比べて西洋の印刷物が持つ文字の美しさに魅せられていたのではないかと思われます。 


 『蕃語小印』(日英蘭会話集)長崎大学経済学部所蔵


  蘭書は部数も少なく、ごく一部の利用者だけが持つに限られていました。
 さて当の昌造らですが、機械等一式は買い取ったものの、その計画は中断してしまっています。おそらくは活版技術に大きな問題があったのかも知れません。なにしろ活字や印刷機械に初めて接するのであり、あいにく出島商館にもこの方面の知識人がいなかったのでは、と推測されています。


 『ドォフ・ハルマ』県立長崎図書館所蔵



其の参 ~手腕と才能~


 1851年(嘉永4年) 昌造28歳の時、オランダ活字を手本に独自の流し込み活字を製造しています。
 1853年(嘉永6年) ロシアのプチャーチンが長崎に来航しました。昌造はその時、長崎奉行の命を受け通詞を勤めることとなりました。



本木昌造旧宅


 また翌年、再びプチャーチンが下田に来航。その際も昌造は通詞を勤めました。
 そして、時を同じくして発生した安政の大地震によりロシアの軍艦が沈没してしまったため、戸田(へだ)村においてスクネル型帆船建造の打建方(うちたてがた)に就きました。そしてその翌年、昌造の手によりわが国最初の洋式蒸気船を建造することとなったのです。



昌造宅跡地


 1860年(万延元年) 長崎製鉄所(現三菱長崎造船所)に就任しました。
 後の1868年(慶応4年) 長崎市浜町築町間に日本最初の鉄橋「くろがね橋」の建設を手がけました。
 このように、通詞、製鉄、海運といろいろな活躍を見せる昌造ではありますが、その間も決して活字への情熱を失ったわけではありませんでした。



くろがね橋


  



其の四 ~印刷文化の開花~ 1


 1855年(安政2年) 昌造は官営の活版印刷所の創設を長崎奉行に上申し、活版判摺所を役所内に設けさせ自ら御用掛となりました。これが後の出島印刷所です。昌造はここでシーボルトの著作などの発行を手がけますが、この頃は木版と流し込み活字の併用で、その出来はまだまだ粗悪でした。


(写真左)『薬学指南』ポンペ著 文久2年 出島オランダ印刷所版


 1869年(明治2年) 時代は明治となり、わが国の印刷史の幕開けともいえる出来事がありました。昌造はアメリカ人宣教師フルベッキの紹介で、上海の聖教書印刷所・美華書館の代表ウイリアム・ガンブルを長崎に迎え、活版伝習所を設立したのです。
 昌造はガンブルの指導のもと「電胎法」と呼ばれる高度な活字製造法を修得し、初めて納得のいく和文活字を作り上げる事に成功しました。


(写真中)活版伝習所跡


 電胎法とはまず、原型となる種字をツゲの木で彫り、それを組んで蜜ろうで型を取り、さらにメッキ槽につけて、電気分解で銅を型に付着させる技法です。
 昌造は さらにこの時、文字のサイズである号、行間等に着目し本木活字を作り上げました(長崎県印刷工業組合および本木昌造顕彰会にて本木活字を後世に残すため復刻いたしました)。


(写真右)電胎法による日本初の活字の母型とその鋳型

  



其の四 ~印刷文化の開花~ 2


 1869年(明治2年) 昌造は長崎市新町にわが国初の民間活版業・新町活版所を創立しました。地元の有志から4千両(現在の約4億円に相当)という莫大な資金を集め、さらに大阪、東京、横浜と支所を設けていきました。同年、横浜にて洋紙を用いてのわが国最初の新聞が刊行されました。
 その3年後、長崎においても月刊「長崎新聞」が刊行されました。しかし、新聞も活字も昌造が期待したほどには売れませんでした。財産の全てを使い果たし困窮した彼を救ってくれたのは、弟子の平野富二でした。
 彼は長崎の副知事にあたる職につき、さらに製鉄所と造船所の所長も勤めていました。昌造はこの最も信頼できる弟子に自分の事業を一任します。確かに、昌造よりも彼の方が企業家としての才覚は上だったといえるでしょう。。彼が引き受け、後に昌造の息子に継がせた築地の活版所は、時代の波に乗って急成長を遂げました。




其の伍 ~その残せしもの~    

 1875年(明8年)9月3日、昌造は52年の生涯を終えました。現在、墓は長崎市鍛冶屋町大光寺にあり、長崎市文化財の指定を受けています。
 毎年9月には長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会による法要が営まれ、数多くの人々が訪れます。